ギヤマンは誰がために泣く


 「姐さん、姐さん。また来ていますよ、三笠屋の若旦那」
襖の細い細い隙間から外をじっくり凝視しているその童は、溢れんばかりの好奇心で顔を紅潮させている。やれやれ…とんだ野次馬根性だ。今からこれでは先が思いやられる。
女物の細身の煙管がつと上を向いた。
「やめな、みどり。みっともない」
貴船は肺いっぱいにたまっていた煙を吐き出し、禿の少女を軽くたしなめた。みどりは後ろ髪引かれるような思いで立ち上がったに違いない。赤く膨らんだ顔から胸の内に不満の煙が燻っているのがよくわかる。
まだまだ子供のような仕草を見せる少女に、貴船は思わず苦笑いが浮かんでしまった。
「だけど姐さん、このままほうっておいていいんですか?三笠屋の若旦那っていえば……」
「松戸屋の夕霧の男だろう」
瞠目しているみどりをよそに貴船は吸い口を口に含んだ。遊女のたしなみとはいえいつ吸っても口に広がるのは嫌な味だ。みな、これのどこを美味いと思うのだろうか。腹の中で愚痴をこぼしているとみどりがつつっと近寄ってきた。どうやら今度は内緒話でも始めるらしい。
「御存知だったんですか?」
「当たり前だよ。どこの誰にどれほどの馴染みがついているかなんて調べなくてもこっちの耳に勝手に入ってくるさ」
「だったらどうして……」
恨めしそうな上目遣いでみどりは貴船を見つめていた。その目が言わんとしていることに気付かない貴船ではない。
「どうして吉野に言わないのか…って言いたいんだろう。いいじゃないか、三笠屋の若旦那っていやぁ、界隈でも遊び人で有名だ。うちの旦那さんが何も言わないってことはこの店でも黙認されているってことさ。ま、義理も眩んでしまうほど懐に落ちてくる金子が半端じゃないんだろうね。あの若旦那なら今まで修羅場も数多くくぐっているだろうし、松戸屋が怒鳴り込んできても万事巧く収めてくれるさ」
「そうじゃなくて…!」
顔を紅潮させみどりは反抗的な目をみせる。みどりが何を言いたいのか、貴船だって分かっている。分かっているがそれを自分が吉野に話す義理は無い。貴船のそんな態度がみどりには薄情に思えるのだろう。みどりと同じくらい幼いときの貴船なら同じことを思っただろうが今の貴船はそう思わない。
「みどり、飴売りが来ているよ、買ってきな」
ちょうど店のそばを通っている飴売りの声が聞こえてきた。貴船は抽斗を開け少し多めにその白い手に銭を握らせた。脹れ面のままみどりは踵を返し、小気味良いほど良い音をたて襖をしめて出て行った。次第に遠ざかっていく足音は飴程度では機嫌が直らないだろう。
少し開いた襖の隙間から丁度真向かいにある吉野の部屋が見えた。ぴちりと襖を閉めた部屋で、昼間から吉野と三笠屋の旦那はなにをしているのやら。そっと立ち上がりその隙間をぴしゃりと閉じる。
「雨かねぇ……」
この調子では今日も客足が遠のくだろう。深い曇天がごろりと空に寝転んでいる。すでに温くなった酒を片手に貴船は窓際に腰を下ろした。ぽつぽつと路面を濡らしている雨はこれから本降りとなるのだろう。
見事な細工のギヤマンの猪口に酒を並並注ぎ、静かに口に運ぶ。ぴりっとした痛さが口内に広がる感覚がこの酒の醍醐味だ、いつ飲んでも快い。
雨は嫌いだ。雨は思い出させる、あの日を、蝕む闇を、身体を引き裂く苦痛を、心を切り裂く現実を。



逃げられると思っていた自分が今となってはひどく滑稽だ。だがあの時は真剣だった、信じていた。常日頃は信じもしない仏様だって自分たちのこの強い思いを後押ししてくれると信じて一分の疑いも抱かなかった。だが所詮つけ焼刃の計画。実行する前にことは露見し、きつく握りあっていた手を無理やり引き離された。暴れても泣き叫んでも広がっていく距離、絶望を色濃く映す相手の瞳が脳裏に焼きついた。
幼いときから目をかけてもらい、可愛がってもらっていた店の男衆も、足抜けしようとした女郎には容赦ない。ささくれ立った太い紐で梁に吊るされ、着ている物を全て剥がされ、剥き出しの肌に容赦なく太縄を振りかざされる。一度振り落とされるごとに肌にすりきれたような赤い跡がついた。手加減もなく情もなく、何度も何度も同じ場所を強く叩かれ血が滲み涙が飛び散った。その時にはすでに相手のことを思いやる気持ちも霧散し、ただいつまで続くか分からない拷問に恐怖しているだけだった。
二度とこんなことをしでかさないように、そして他の女郎にも足抜けすればどうなるかを思い知らせるために、男たちは一晩中貴船に悲鳴を上げさせた。
他の女たちは地下から聞えてくる貴船のこの世のものとも思えない声に、その身を震わせたことだろう。そして思う、足抜けの恐ろしさを。そして誓う、断じて自分は愚かな行いをしないと。
それこそ楼主の思う壺だったろう。
気を失うほどの責め苦を味わい、目が覚めても暗い土蔵に一人きり。手足を縛られたまま食事は気紛れに渡される冷えた握り飯一つ。不自由な体勢のまま、それでも飢えた喉に冷えた飯粒はどんな食事よりも美味であった。最初は己の不遇を嘆き大声を出して叫いでいたものの、そのうち声も枯れ気力も磨り減り、嘆くことさえしない生きた蝋人形の如く地下に打ち捨てられていた。
時間が経つにつれ嘔吐物や排泄物で異様な臭いが室内に充満してきた。
全ての感覚が麻痺し、自分はすでに三途の川を渡ってしまっているのではないかと思うほどであった。どれほどの時間が過ぎたか分からないが、あるとき眩しすぎる光の筋が頬をなぞった。楼主の許しがあり、貴船は久方ぶりに人の世に生還できることと相成ったのだ。ずっと簀巻きにされていたためか、足を踏ん張ることさえままならず、若い男衆に抱えられるようにしてまず風呂へと連れて行かれた。惜しげもなく湯を浴びせられ身体が温まってくると涙が溢れ、貴船は人目も気にせずしくしくと泣き出した。見て見ぬ振りで男は黙って貴船の汚れを清めていく。足抜けが失敗し、その後相手がどうなったのかを考えて涙を流したわけではない。男の事などとうに貴船の頭にはなかった。
ただ温かい湯に触れ、ささくれ立った心が癒されていくに従い、ようやく自分が底知れぬ恐怖から解放されたことを実感したのだ。心から安堵すると訳もなく涙が溢れた。
湯から出るとふらふらとした足取りで自分の部屋に戻る。千鳥足の貴船を男はかいがいしく世話してくれた。もう名前も覚えていない三十路を少し過ぎた男は、ぼんやりとしている貴船の前に改めて座りなおし、懐から懐紙を差し出した。
「……花紫さんからです」
花紫とは貴船の姉貴分であり、この廓において一番の理解者であった。そこでようやく貴船は相手の男のことが気にかかった。
「あの人、は」
「………」
男は黙って頭をたれた。死んだ魚のようなだった貴船の瞳に徐々に生気が宿っていく。意味も分からず視線だけが所在無げに宙を泳いだ。
「あの人は……」
「そこに……」
そことはどこ……戦慄く唇を人前にさらし、貴船は眼前で正座をしている男にじっと目を向けた。男の目は一心に二人の間に置いてある懐紙に注がれている。風が吹けば飛びそうなほど弱々しいそれは、禍禍しいほどの白さを保っていた。震える手でおそるおそるそれを取り、貴船は小さな手の中で広げた。
その日、外は激しい雨が降っていた。


「やけに強くなってきたねえ」
軒から手を差し出し雨を受け取る。ぽつぽつと降っていた雨脚は次第に強くなってきていた。これでは商売上がったりだ。
自分たちは愚かなことをした。その報いとして男は生を失い、貴船はいまだにこの牢獄に繋がれたままだ。それでもまだ自分は恵まれていることを貴船は知っている。足抜けしようとした女の末路もまた酷いものが多い。折檻死したものもいるし河岸に落とされ、そこで命を落としたものも多い。そんな中、貴船は楼主の計らいによって今も尚この場所に身を置かせてもらっている。まれな処遇であると言っても良い。
少なくとも吉野は足抜けなんてことはしない、そして三笠屋の若旦那がそんな酔狂に足を突っ込むとは思えない。今の若旦那は吉野の瑞瑞しい肌に夢中になっているだけだ。そのうち夢は覚める。そして元の鞘に戻るだろう。莫大な金子がこの妓楼に流れ込み、女が一人涙を流して全てが終わる。誰も死にはしない。
空になった猪口に風で煽られた雨がポツリと落ちてきた。滴はゆっくりと赤いギヤマンの側面を滑り落ちる。それは頬を伝う紅い涙のようだ。
そして人知れず、音もたてずに涙は古びた板敷きに消えていった。




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